そして遠くて近い国パラオへ 8

 1月9日。この日が実質的にパラオで過ごす最終日になります。ここまでずっと上天気だったのが前日の夜から下り坂で朝になると雨。幸い活動を始める頃になると小雨に変わりやがてそれも止みましたが。
 昨夜のうちに花子さんの親族にアポを取って、この日の10時に会う約束になりました。指定された繁華街の中心に建つパレイシアホテルに先に着いて待つことしばし。現れたのは初日にスーパーで会った孫夫婦に女性がもう一人。
 花子さん(パラオ名エビルトリック・スマング)の長女ラファエラさんの次男で、白人の血が入っていると思われる顔立ちのグレン・シードさん。その奥さんが日本人女性の越子さん。初めてお会いした女性はうっかり名前を聞き忘れたか聞き漏らしてしまって手帳にメモ書きがありませんが、この方が花子さんの四女イサベラさんの娘さん。
 花子さんは前述したように戦後グアムで療養中29歳で亡くなっていますが、その時イサベラさんは5歳。母親の顔は覚えているが写真は持っていなくて、昨年10月にTさんがパラオに来たとき渡してもらった写真を見て、自分の若いころに似ているととても喜んでくださったそうです。しかし、10月にTさんが会ったとき病気から回復途上で退院したばかりだったというイサベラさんは、その後再び悪化して12月に亡くなられたとの事。亡くなる前に写真を渡す事が出来て良かった。
 歓談の中で知ったことですが、花子さんの母親メリーさんも女酋長だったそうで、ドイツ人と結婚しましたが第1次世界大戦でドイツが敗北すると、夫はメリーさんを置いて帰国してしまいます。花子さんがこのドイツ人との間の子どもだったかどうか分かりません。ここにも戦争に翻弄された人たちの歴史がありました。
 花子さんの子どもたちの時代になって、ファミリーが台湾資本との共同経営に乗り出したのが、面会に使っているこのホテルとのことです。ホテルの地階の一角に、夫の去った後の海を見続けるメリーの姿を描いた壁画があるとの事で、案内してもらいました。
 花子さんの孫ファミリーに会った後、午前中にもう一か所、大統領のオフィスを表敬訪問する手はずになっていました。タクシーを使って約束の時間の30分ほど前に到着。大統領との会談ということで頼んでおいた本職の通訳の女性も5分前には合流しましたが、実際に大統領の待つ部屋に通されたのはそれからさらに20分は過ぎていたと思います。
 今回のパラオ訪問の一件を写真を見てもらいながらかいつまんで説明。博物館に写真のオリジナルを寄贈した事については感謝の言葉をかけられましたが、時間が押していたのか、話をしたのは20分そこそこ。最後に記念写真を撮って、「ハイ次の組」といった印象でした。
 こういう経験が初めての私には新鮮で貴重な体験でしたが、Tさんにとっては不満が残ることになってしまいました。というのも、支援活動を通じて大統領とは旧知の仲のTさんには、この会談の席で、支援活動を続けていくうえでどうしても頼みたい事があったのに、それを言い出す前に私の件だけで話を打ち切られてしまったのです。私にとっても少し後味の悪い結末でした。ホテルに戻るタクシーの中は、Tさんの心情を思いみんな無口の重苦しい雰囲気です。
 しかし、それも昼を過ぎたころまでの事。これまで様々な経験を乗り越えてきたバイタリティー溢れるTさんは、いつまでも後ろを見いていません。15時にTさんの今回の目的である、農業支援の打ち合わせでエサール州の知事と面会があり、同時にM君の3か月にわたる農業研修とホームスティの最終確認とお願いなど。このエサール州がTさんたちの農業支援に応じて自立活動に積極的なのだそうです。
 私も部外者ながら同席していると、話が一段落したところで私の件がTさんから紹介され、話の中で母たち家族が商店をやっていた事に触れると、州知事の口から「ショウバイニン」という言葉が飛び出しびっくり。日本の統治時代の25年ほどの間に3000語近い日本語がパラオ語として定着したという事だけは、事前に調べて知っていましたが、「ショウバイニン」もその一つだったとはTさんも初めて知った様子。

 この日の夕食は私のリクエストで、再びカープレストランですることになりました。店に着いてみると閉まっています。定休日を調べていなかったので、ひょっとして・・・と思っていたら、午後の開店前に着いただけでした。前とは違う料理をいくつか注文しましたが、やはりボリュームがすごい。この時はビールも頼み、酒に弱い私は1杯で出来上がってしまい、明日早朝には私一人帰国することになるので、軽口のつもりで「皆さんとの最後の晩餐」と言ったら3人から叱られてしまいました。