そして遠くて近い国パラオへ 7

1月8日。
 パラオに着いてからここまで、ほとんどの時間を私に付き合ってくださっていたTさんやM君にも、こちらでするべき事は当然あり、この日の午前中は先方とアポをとったり打合わせの電話に取り掛かっておられます。それとなく聞いていると、日本とパラオでは時間や約束といった概念が少しずれているようです。日本では約束や時間は優先して守るべき基本ですが、どうもこちらでは時間がゆっくり流れている様子。約束も書面ではっきりと書いておかない限り、日常生活の時間の流れの中で次第に優先順位が失われていくようです。どちらが良い悪いではなく、書面で交わした約束以外はおおらかに捉えておくのがこちらの流儀なのでしょう。

 昼近くになって昼食の調達にYANO惣菜店に行くことになりました。私だけその手前で降してもらい、昨日ウエキ氏から聞いた橋商店のあったあたりの写真を撮ることに。
 目印となるギフトショップ「ルー」は、実はこちらに着いた当日に一度訪れていた店でした。日本を発つ数日前にメールを頂いていたパラオ諸島戦史研究会の横浜さんから、パラオで生活している二人の日本人女性を紹介され、戦前の日本人の生活に関心がある人たちなので、向うに行ったらぜひ会ってみてくださいと勧められていたのです。その一人が「ルー」で仕事をしている立堀さんでした。店を訪れた際母の記事が載った新聞のコピーや写真を見せ、橋商店の売り物の一つにかき氷があったように、この店でもかき氷をやっていたので、それを注文して食べたのです。75年以上の時を隔てて同じ場所でのかき氷。これも何かの縁でしょうか。
 もう一人の女性とも昨日お会いしていて、その方は日本地雷処理を支援する会(JMAS)に勤務する大永さん。彼女からは当時の日本人社会を知る年代の方として、ウエキ氏とともにマサオ・キクチ氏のことも教えてもらいました。残念ながら滞在中の時間の制約もありお会いするに至りませんでしたが。大永さんは前日まで日本にいて今日パラオに戻ってきたところだったそうで、このタイミングも何かしらの縁を感じたものです。
 横浜さんから話を聞いたときは中高年の女性だろうと想像していたのですが、お二人とも20代から30代と思しきとてもチャーミングな方たちでした。

 幹線道路沿いにある店の外観を何枚か撮り、YANOでTさんたちと合流。前回とは違う惣菜を買い込んでホテルに戻りました。タピオカの団子のようなものは少し甘めでしたが、惣菜はどれもおいしく口に合わないものはありません。レストランでの食事も含め、地元食材や地元での味付けに違和感はありませんでした。
 この日は午後からアラカベサン島にある日本大使館を訪問することになっています。食事を終えて少し休憩の後、タクシーを呼んでもらい大使館へ。タクシーは初日からずっと同じ運転手にお願いしていて、小柄で気さくなそのおじさんはTさんをママさん、私をパパさんと呼びます。家族と思っていたのでしょうか。
 大使館では専門調査官という肩書の安田さんが応対され、ここでも写真のことなどを話しました。大使館などは旅行中に事故など被害が生じたときに駆け込むところ、そんな認識しかないので表敬訪問という体験は新鮮でした。日本大使館はパラオで一番格上とされるホテルの敷地に隣接し、大使館を出るとそのままホテルの敷地内を散策できます。
 パラオパシフィックリゾートホテルには日本人のスタッフが常駐していることもあり、日本人観光客が安心して過ごせると人気があるそうです。また、パラオのホテルで唯一ホテル内の水道が飲料として使えます。ここ以外では水道水を飲むことはできず、ペットボトルの飲料水が提供されます。敷地内に砂浜のビーチがあるのにびっくり。自然のものか人工的に作られたものか知りませんが、すごく贅沢感が漂うホテルでした。宝くじでもあたって豪遊できるなら、次のパラオ旅行は家族とともにこのホテルに1年ほど泊まり、島巡りをし魚釣りをし一番暗い場所で星を観望を・・・。