そして遠くて近い国パラオへ 6

 ホテルに戻りシャワーを浴びて汗を洗い流し終わると、Tさんからウエキ氏とアポイントが取れたから今から行きましょうと言われました。彼は日本語が堪能だからM君の通訳もいらないということで、Tさんと2人で取り急ぎ出かけることに。
 オフィスに到着するとすでにウエキ氏が待っておられました。今年の誕生日で88歳になるというウエキ氏に、母が戦前パラオに住み、結婚して家庭を持ったこと、戦時中の引揚げの際に持ち帰っていた当時の写真を、この度パラオの国立博物館に寄贈したことなど、かいつまんで話しながら昔の地図のコピーやデジタルスキャンしてプリントしておいた写真を見せると、橋商店が写っている写真のところで指が止まり、この店を知っているとのこと。
 当時少年だった彼は、母たちが営んでいたこの店でジャムを塗ったパンを買って食べたというのです。日本人の裕福な家庭の子は毎日のようにここでパンを買っていたが、自分やパラオ人の子どもはそういつも買えるわけではなかったとのこと。そんな話をしてくれた時のウエキ氏は、確かに当時を懐かしむ少年の表情でした。店のあった場所はわかるでしょうかと尋ねると、現在の繁華街の一角にある「ルー」という店のあたりだというのです。
 今と違って当時の中心街は間口の狭い商店などが隙間なく立ち並んでいました。そんな写真を私もパラオに来る前のリサーチで何枚か見ていましたが、そこに橋商店は残念ながら写っていませんでした。しかし当時を知る彼がそう話してくれたので、これ以上確かなことはありません。この話を聞いた時には思わず鳥肌が立ちました。
 母から話を聞き、写真もある。しかし当時の母たちを知るパラオの人たちはすでに亡くなっており、その子供や縁者がいるだけ。住んでいたという家も残っていない中、どこか誰かの物語を傍観しているような手ごたえのなさをずっと感じていたのですが、ウエキ氏の口から出た日常の何気ない風景を聞いたことで、やっとこれが自分につながる現実だと思えた瞬間でした。パラオに来て本当に良かったと思えた瞬間でもありました。

 高揚した気分でホテルに戻るともう夕暮れ時。この日の夕食はパラオに拠点を置く旅行会社(今回の旅行もこの会社で手配)の社長で、Tさんが親しくされているSさんのお誘いで、彼の経営する日本料理のレストラン鳥鳥(とりとり)でとることに。Sさん自ら運転する車で直行した店は繁華街の中にありすでに満席状態でしたが、予約席が確保されており、こちらが注文した以外の料理まで次々出てきます。私たち4人とも食事代が心配になってきましたが、いざ会計になった時、ここはすべて社長のSさん持ちとのこと。パラオでしか食べられない食材を使った料理をおなか一杯ご馳走になってしまいました。
 食事中にSさんに伺ったところによると、散歩のときに見た日本建築の屋敷は駐パラオ日本大使の公邸とのでした。納得。アルコールも入っていたので、Sさんは運転されずそのまま店に残り、私たちはお店の従業員さんにホテルまで送ってもらうことに。
 こうして、パラオ滞在2日目は私にとって充実の1日となりました。