そして遠くて近い国パラオへ 5

 この時はウエキ氏と会えないままホテルに戻ることになったのですが、戻る途中、戦前母たちが暮らしていた家の近くを通るので、海の見えそうなところで車を止めてもらうことにしました。出来れば岸壁のようなところではなく、砂浜のような海面に触れられる海岸がいいのですが、コロール島はサンゴの隆起でできた島なので、砂浜がほとんど無いようです。
 戦前のコロール市街地図(復刻版)とグーグルマップをプリントしたものを見比べると、細い道などが異なっています。戦争で一度荒れたあと、区画整理などが行われたのかもしれません。両地図を見比べるとアイランド・パラダイスリゾートクラブ(IRRC)というホテルが、昔の地図にある家とは少し離れているようですが、海に出るには一番よさそう。
 ホテルの敷地内なのでM君に通訳をお願いし、「戦前に家族がこの近くに住んでいたので懐かしく、少し散策させてほしい」と告げると、責任者らしい中国系の人物が快く応じてくれました。海岸近くまで寄ると砂浜ではありませんが水際まで下りられるようになっていました。同行の3人には待ってもらい水際まで下りて、カバンから小さな封筒を取り出します。中身は14年前の夏、和歌山・串本の海に散骨した時、遺灰を包んでいたガーゼです。普段は仏壇の中に収めていたもので、日本を出るときまだ少し繊維の隙間に灰が残っているのを確かめていました。
 ガーゼをそっと海水に浸し、手を合わせ黙とう。それから水の中の砂粒を少しつまみ取って、ガーゼとともに封筒に収めました。ここへ来られなかった兄に頼まれていたのです。
 待ってもらっていた3人のところに戻り、礼を言おうとした瞬間、急に胸が詰まり涙があふれてきました。急いでハンカチで目と口を押えましたが、嗚咽が止まりません。突然のこの事態に成す術もなくしばらく立ち尽くしてしまいました。病院で母が息を引き取ったときも、葬儀の時も串本で散骨した時も涙ひとつ出ることなく冷静でいられたから、自分は冷たい人間なのかなと思ったぐらいでした。それなのにこんなことになるとは我ながら心底驚いてしまいました。
 ようやく落ち着いたところでTさんたちに、待ってもらったお礼とパニックになったことを詫び、心配そうに遠くで眺めていたホテルの人にも礼を言って、宿泊先のホテルに戻りましたが、戻る車中でも、何かしゃべろうとするとすぐまた涙があふれそうになります。まだまだ気持ちが高ぶっているようでした。
 ホテルの部屋に戻りしばらく休憩しましたが、夕食まで十分に時間があり、母たちが住んでいた家のあたりを探してみたいという思いが高まっていたので、1時間ぐらいで戻りますと告げて一人で散歩に出かけることに。実際地図で見ると先ほど散骨したIRRCまで歩いて往復40分もあれば十分そう。
 南国の午後の強い日差しのもと、旧地図とグーグルマップを見比べながら歩くと、IRRCの手前から家のあたりに続くはずの小道がありません。しかし、少し離れたところに別の小道があったのでそこをずんずん進んでいくと、IRRCの裏手に当たる海岸に出ました。そこには別のこじんまりしたホテルらしい建物がありますが人がいる気配がありません。海岸と反対の崖の方を見ると、木立の隙間から家が見えました。
 もう一度旧地図を見ると、どうも崖の上のその家のあたりが本命のようです。小道を戻り崖の上に通じる道を探しますが、住宅の敷地内を通る道のほか見当たりません。グーグルマップを見返し、マラカル島からアラカベサン島の方に行く分かれ道まで戻り、そこからアラカベサン島側に行く道から分かれてぐるりとアルファベットのCのように円弧を描く道があるので、その道を行くと崖の上の家にいけそう。
 すでに体は汗でベトベトになっていますが、何としても確認しておきたい気持ちが強く、円弧の道をたどっていくと、突然日本風の屋敷のような建物が目に飛び込んできました。見ると日の丸の国旗が掲げられ壁には金色の菊の紋がはめ込まれています。何? でもこれは戦前に建てられた家ではありません。
 道をさらに進むと、先ほど崖下から見えていた家が見つかりました。Cの字を三分の二ほど進んだところです。今は現地の人の家が点在していますが、旧地図では確かにこの辺りが家があった場所に違いありません。やっと見つけたという小さな達成感で足取りも軽く・・・でもなかったけれど、気持ちよく帰り道を急ぐことに。