そして遠くて近い国パラオへ 4

 滞在1日目の夕食場所に選んだカープレストランは、旅行パンフやネットでもよく知られたパラオの名物レストランです。いわゆる大衆食堂の部類ですが、値段が手ごろなうえ量が他所の店の1.5倍はありそうなボリューム。そしてこの店のオーナーの奥さんが何よりの名物とのこと。年配のご夫婦とも日本人ですが、ご主人は野球の読売ジャイアンツのファンなのに対し、奥さんの方は広島カープのファン。奥さんの主張が通って店の名前をカープにしたそうです。この奥さんがまた気さくでよく喋る。
 このカープレストランのオーナー岸川さんのお父さんが母と同じ佐賀県の出身で、戦前のパラオに出稼ぎに来ており、終戦時のアメリカによる日本人強制退去の際、孤児になっていた知り合いの日系パラオ人の少年を連れて故郷の伊万里に引き上げたそうです。この時の少年については少し詳しく後述します。
 夕食から満腹で戻り、前日ほとんど寝ていないこともあってすぐに就寝・・・ところが2時間ほどで目が覚めてしまい、これ以上寝られそうになくて外を見ると星空! 早速カメラと三脚をもって、ホテルの近くの岸壁に出かけました。この時をはじめコロールに滞在中に撮影した星の写真については、1月のブログでアップしています。

 1月7日。最初の公式訪問先はパラオ国立博物館。
 地元紙・京都新聞に大きく紙面を割いて記事にしていただき、Web紙面でも取り上げてもらったことが、台湾在住のパラオ民俗学研究者の目に留まり、その友人の京都大学事務職員U氏を通じて、これまで見たことのない写真なのでぜひ国立博物館に寄贈されてはどうか、とのお話をいただきました。正直なところその扱いに迷い、いずれは破棄することになるかもしれないと思っていた写真だけに、パラオの博物館で展示保存していただけるなら、それが一番いいかもしれないと兄とも相談。
 最初は郵送するつもりでいたのですが、急遽パラオ旅行がまとまったので直接手渡すことになりました。当初博物館の方では小規模ながら贈呈式を予定し、地元新聞社も来るよう手配するとのことでしたが、そういう事に不慣れで堅苦しいことは苦手なので、出来るだけ簡素に願いたいと伝えていました。
 受付で来訪を告げると、気さくなおじさんという印象のサイモン・アデルバイ氏が応対。ロビー横の喫茶室で寄贈する写真のそれぞれについて確認することに。事前にリストにしてU氏経由で渡してあるので補足的な話をし、屋外に出て記念撮影。そのあと館内の展示物を案内してもらい再び喫茶室に戻ると、今度は少し年配の男性が待っていました。
 アデルバイ氏から副館長のスコット・ヤノ氏と紹介され、再び写真についてのいきさつなどを話しながら歓談。今度も屋外に出て記念撮影も。ヤノ氏が日系なのかどうか名前だけではわかりませんが、日本の姓を名乗るのは日系人だけでなく、日本の植民地時代に、世話になったり親しくしていた日本人の姓を付ける純粋のパラオ人もいたとか。今ではアメリカ的な姓や名前を付けている人も多いようで、これも時代の流れでしょう。もうひとつ。前日昼食を買い求めた惣菜店YANOはヤノ氏の弟が経営しているとのことでした。
 昼を過ぎたころになり、そろそろお邪魔しようとしていたら、副館長の指示で特大のハンバーガーが出され、遠慮なくごちそうになってから退出。
 昼を過ぎ、ドクター・ミノル・ウエキ氏に会いにマラカル島に移動。しかし、事前にアポを取っていなかったのか生憎不在。出直すことになります。
 ミノル・ウエキ氏について私は全く情報を持っていませんでしたが、Tさんの話では前述のカープレストランオーナーのお父さんが、終戦後に連れて帰った日系パラオ人の少年だということです。彼は日本に引き揚げた後、中学校に通い日本の教育を受けます。数年後、帰国が叶いパラオに戻り、さらにアメリカにわたって医学を学び、ふたたびパラオに戻り国立病院で医者として勤務、のちに政治家となり日本へはパラオ大使として3年間赴任経験もある、努力家の秀才という人物。日本との国際交流で貢献大ということで昨年秋の叙勲で旭日重光章を受けられたとのことです。
 そんな人物と一介の民間人に過ぎない私が気安く会えるのかと不審に思いましたが、彼なら少年時代に戦前の日本人社会を知っているので、何か手掛かりの話が聞けるかもしれないと、Tさんの提案で進めていただいていました。これもTさんの顔の広さのおかげです。