なぜパラオに行くことになったのか 4

 命からがら内地にたどり着いた母たちは、夫との約束に従い故郷の佐賀を目指したのですが、戻った実家の、彼女の仕送りで建てた家(と母は言っていました)に、母たちの居場所は無かったのです。父親やその後妻である継母は既に他界しており、沢山いた異母弟・妹たちの誰かが家を継いでいました。父親がまだ健在だったら、母は自分の仕送りで建てた家の権利を主張することもできたかもしれません。しかしどこまで経緯を知っているかわからない異母弟妹たちが相手では、居座ることもままならなかったのだと思います。食糧難の時代に突然転がり込んできた厄介者というのが弟妹たち全体にあったのでしょう、自分の長男とは6歳違いの一番下の弟はそんな雰囲気を直接行動にあらわし、長男は酷くいじめられたといいます。長男はこのことを生涯忘れず、数十年ののち再会した時も心からの和解はできませんでした。
 そんな子供たちの事情を見ておれず、母は子供たちを連れて夫の実家を頼ることにしました。結婚後もほとんどパラオで過ごしていた母たちにとって、夫の故郷滋賀県は見知らぬ土地、よそ者でしたが姑は温かく迎えてくれたようです。
 母たちが夫の実家を頼ることにしたもうひとつのきっかけは、音信のない夫の生死について知りたいとの思いから、佐賀にいる頃、人づてによく当たる占い師の話を聞いて頼ってみたことからでした。実際には占い師というより霊の声を伝えるという「口寄せ」の年配の女性でした。
 夫とパラオで生き別れた事情や消息を知りたいという話をした後、降霊が始まるとそれまでの声色が変わり、胡坐をかく座り方などの所作が夫そっくりで、喋り方も夫の口調そのままに、自分はすでにこの世にはいないので、子供たちのことはくれぐれも頼むといったそうです。この話を母から聞いた私自身は超常現象など信じないほうなので、眉唾物だと思いましたが、藁をもすがる思いだった当時の母にはショックだった事でしょう。
 滋賀県に身を寄せた母たちでしたが、終戦翌年になって戦死公報が役場から届いて、夫は招集されたその年のうちに、パラオの激戦地ペリリュー島で玉砕していたことが分かります。口寄せの言ったことが当たっていたわけです。結局遺骨どころか髪の毛1本も戻らず、ただ戦死公報で2階級特進が知らされただけでした。姑もその知らせを待っていたかのように公報の届いた翌月に亡くなります。(除籍謄本によると、役場で戦死を受付けたのが昭和21年9月27日。姑の死亡は同年10月9日とあります)
 母たちの苦境はそれだけでは終わりませんでした。
 未亡人となった母に縁談が寄せられましたが、当時家督を継いでいた夫の兄が反対し、再婚するなら子供たちを置いていけと言われたそうです。再婚先で子供がいじめられることもあるかもしれないとの思いから、それに従い縁談を断ったところ、京都に所帯を持っていた義兄が、母のもとに来るたび子供たちの面倒は見るからと関係を迫ってきたそうです。そしてとうとう抗しきれず・・・その結果生まれたのが私ということです。
 産むかどうか迷った挙句、生まれてくる子供に罪はないと周囲から諭され産む決心をしたと、そう聞かされたのはまだ私が幼児の頃でした。物心つくかつかないかの頃からそんな事情を隠さず聞かされていたおかげで、判断が付く年頃になってもショックらしいものはありませんでした。物心の付いた幼児期、父が1か月に一度しか家に来ないのを心待ちし、来たときは喜びはしゃぎまわっていたそうです。ただ、泊っていって欲しいといくらせがんでも聞き入れてもらえなかったのは不満でしたが、そんな時母や兄がどんな思いでいたか、心中を推し量れる歳になってから当時を思うと複雑なものがあります。
 世間では子供の出自に問題があると考えるとき、その子に隠し通すか成人するまで話さない、ということもあるようです。しかし、自身の経験から言えば何かのきっかけで隠されていた事実を知ったときのショックが大きいだろうし、隠されたことで自分の存在が悪いことのように思うかもしれません。出自をたどりたいと思った時には関係者が亡くなっていたりして手遅れ、ということもあるでしょう。
 子どもの人生はその子のものであり、どう対処するか本人に任せればいい。そのためにも隠さず幼少期のうちに何でもないことのようにあけっぴろげに話してあげてほしいと思います。愛情をもって育てていれば幼少期に真相を告げても何も問題は起きないと私は思います。
 母は私がいずれ自分の出自を恨んで反抗し、非行に走るかもしれないと危惧したこともあったようですが、むしろ私が生まれるに至った事情で傷ついたはずの兄たちが、普通に兄弟として接してくれたことで、わたしは自分を否定すことなく成長できたのです。
 判断が付くようになってから思ったことは、わが父親はずいぶんひどい男だったんだなあと。しかし父親も高齢になってからの末子ということか私には甘かった。そんなことから父母を恨むようなことはありませんでした。何よりそういう事実がなければ今の自分は存在していないし、結局自身の存在をを肯定するほかないわけですよね。
 しかし、母や兄たちにとっては事情が違ったはず。母は我が子を守るため関係を持たざるを得なかったし、兄たち、とくに反抗期を迎えつつあった長兄にとって、自分たちの立場の弱さに付け込んだ伯父は、許し難い存在だったと想像に難くありません。相応の反発があったのかどうか、私が生まれてほどなく、中学1年で中退させられ、長男として一家を支えるという名目で(私の)父親の知り合いの京都の店に、住み込みの職人見習いとして出されました。
 私たちが京都に引っ越し再び長兄と一緒に住み始めたのは、それから4、5年過ぎてからだったと思います。兄たちは事情を知ったうえで私を弟として隔てなく接してくれたし、私もそれを当たり前として成長しましたが、長兄の心中では葛藤があり続けたのでしょう。長兄が結婚して所帯を持ち子供が生まれたころから、次第に母との溝が深まっていったようです。少年期のつらい体験や生真面目な性格が影響していたのかもしれません。
 ここで父についても少しふれておきたいと思います。
 父は小作農の長男として1896年に滋賀県で生まれ、子供のころに京都室町の呉服商に丁稚奉公に出ています。27歳で結婚し暖簾分けで独立し店を構えます。子供もでき商売は順調で一時は羽振りもよかったそうです。そのころ祇園の芸者さんとのあいだにも一女をもうけています。この異母姉と私は父の葬儀の時に1度会ったきりです。
 しかし羽振りの良かったのが却って仇になったのか、手を広げようとした矢先、得意先の倒産にあい連鎖倒産してしまいます。その後どういう経緯か聞いていませんが大手生保会社に就職し、商売をしていたころの顔の広さを武器に企業年金などの獲得で成績を上げ、売り上げ上位の常連だった時期もあったようです。70歳を過ぎても嘱託で仕事をしていましたが、さすがにその頃は小遣い稼ぎ程度の収入だったようです。
 父は1986年、90歳で亡くなりますがその数年前から痴ほうが徐々に始まっていました。この父の5歳年下の弟が母の夫となった人です。