なぜパラオに行くことになったのか 3

 やがて年頃になった母は、叔父の紹介で滋賀県出身の男性と見合いをし、1934年に結婚します。夫となった男性は農家の次男坊で母より先にパラオに出稼ぎに来て、1931年に食料品を主に扱う商店を開業していました。一回りほども年が違う相手に最初は戸惑い、私には叔父さんに騙されたと言いながらも、笑っていたところを見ると、決して意に染まぬ相手ではなかったのでしょう。
 パラオ人を数名雇いそれなりに繁盛していたそうで、母と結婚後にはコロールの繁華街の一角に小さいながら店を移しています。店ではかき氷も売っていたそうで南国でかき氷など知らない現地人には珍しく、食べては頭が痛くなる様子を、母が面白そうに話していたのを記憶しています。当時はカツオの遠洋漁業が盛んでコロールにも基地があり、冷凍保存のための製氷工場があって、そこで氷を仕入れていたのでしょう。
 結婚翌年には長男が生まれ、長女、次男、三男も生まれますが、長女と次男は生後1年足らずで病気で失いました。三男は健康優良乳幼児として第1回表彰を受け、その表彰状は経年劣化で黄ばんではいますが今も三男の手元にあります。表彰式当日の集合写真も残っていて、当時のコロールの日本人社会の庶民の様子を知る貴重な資料ではないかと思います。
 親の借金のためパラオに出稼ぎに渡り、そこで青春を送り結婚、子供にも恵まれ商売も安定・・・そんな平穏な日々はしかし、太平洋戦争によって失われました。1944年、当時43歳だった夫は現地召集され、婦女子と老人は内地へ引き上げるよう勧告されます。終戦の1年前すでに戦況は悪化し、無事に日本まで帰れる保証はありません。帰国を断念し戦火の本島を逃げ回り、餓死した移民も大勢いたようです。
 30歳の母は8歳の長男、2歳の三男を連れ、パラオで築いた財産のほとんどを残したまま引き揚げ船に乗ることになります。船団は4月に輸送船4隻、護衛艦2隻でコロールを出発しますが、途中で米軍の潜水艦に見つかり魚雷攻撃を受け1隻が沈没。
 その時の様子を母は、「波のうねりのおかげで乗った船の下を魚雷がすり抜け、横にいた別の輸送船に命中した」。魚雷命中の衝撃で乗った船も大きく揺れ、片手で長男の手を握り三男を抱えていた母は思わず甲板に両ひざから崩れ強打したといいます。それが遠因になったのか最晩年にはリウマチで両ひざの痛みに悩まされていました。またその時の様子では、護衛艦から潜水艦めがけての反撃はまるで花火を見るようだったといっていました。
 戦闘中にもかかわらず民間人が甲板にいたというのを不審に思うと、万一船が沈むようなときはすぐに海に飛び込み船から離れるようにせよと言われていたからと。経験した者でないとわからないものだと思ったものです。
 残る船団はサイパンかどこかに避難し、あらためて日本に向かったとのことでしたが、あとで調べてみると一旦パラオに戻っていたようです。船団はその後無事に横浜に入港。そこから母たちは陸路故郷の佐賀を目指しました。
 余談ですが、この時の引揚げでは別の輸送船に、タレントの今田耕司さんのお母様も乗っておられたとの事。3年前にNHKのファミリー・ヒストリーで再放送されたものが、YouTubeの動画にアップされていました。
https://www.youtube.com/watch?v=VgS-TkwDtoE
https://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/23759/955192/
 母から聞いていた引揚げ船での話の内容と、放送の内容が一部異なっているのは、おそらく私の聞き違い思い違いによるものなのでしょう。当時はメモも取らず聞き流していましたから。今にして思えば悔やまれますが、母が亡くなった今では聞きなおすこともできません。