なぜパラオに行くことになったのか 1

 2019年の年初に短期間ながらパラオを訪問してきました。自らのルーツにかかわる旅でもあったので、いずれ文章にまとめるつもりでいるのですが、極めてプライベートな内容を含むそれをブログに上げるのが良いのか悪いのか、迷いつつ文章力のなさを言い訳にずるずると引き延ばしていました。
 しかしもともと記憶力が悪いうえ、先延ばしにするほどに旅行の記憶があいまいになってしまうので、これではだめだと思い記憶の残っているうちにとりあえず文字にしておき、後日改めてちゃんとした文章に書きなおすことにしようと考えなおしました。

 母の半生については、私の若いころから何度も話を聞いていたのですが、「今どきの若い者」の例に漏れず、親の人生に何ほどの関心も示せず、ただ聞き流していていたせいで、今では記憶も朧気で曖昧、思い違いなども多々あってどこまでが聞きかじりによる事実で、どこからが思い違いによる創作なのか判然としません。
 しかしそんな記憶の糸を手繰り寄せることになったのは、私自身が70歳を目前にして終活を考え始めるにあたり、母が亡くなってやがて14年、徐々に処分してきた遺品の中でも、手が付けられなかった写真をどう処分するか、特に戦前の写真に写る異国の風景や人々のことが気になりだしたことから。
 母が戦時中のパラオから命がけで持ち帰った写真、そこに写っている人たちの家族にこの写真を手渡せないものか、地元の京都新聞社に相談を持ち掛けたところ、支社長のOさんが熱心に聞いてくださり思いがけず記事にしていただいて、そこから人の縁が生まれ、思いもしなかったパラオへの訪問が実現したのでした。

 パラオは日本からはほぼ真南に約3000km、北緯7度、東経134度付近にある太平洋上の大小約200ほどの島からなる小さな島国で、全部の島を合わせても屋久島ほどの面積にしかなりません。
 本島と呼ばれるバベルダオブ島が一番大きく、首都マルキョクや国際空港もこの島にあり、国土の7、8割程度を占めています。その南側に隣接するコロール島がパラオの中心で、全人口2万人ほどの約8割以上がこの島に住んでいます。2006年10月までこの島に首都がありました。
 現在はダイビングや観光資源で成り立っている国ですが、75年前までは日本の統治下にありカツオ漁やリン鉱石の採掘も盛んだったようです。南洋と呼ばれる一帯を統治する南洋庁がコロール島に置かれ、コロールがパラオの中心となる礎になったのでしょう。
 パラオが国際的に知られるようになったのは、16世紀の大航海時代にスペインによりミクロネシアの一部として発見されたことから始まり、19世紀末にドイツに売却されるまでスペイン領でした。1914年に第一次世界大戦が起きると、日本は連合国側についてドイツに宣戦布告し、終戦後に委任統治権を手に入れ実質的に植民地としました。
 スペインやドイツ領の時代にはリン鉱石の採掘を細々とやるぐらいで本国からあまり重要視されず、白人による他の植民地同様、原住民であるパラオ人も人間扱いされることがほとんどない状態だったようです。しかし日本の統治が始まると現地人のための学校を作ったり、病院や道路といったインフラ整備に力を入れ、それまで漁業のほか生産手段を持たなかった現地人に農業を教えるなど、自立支援を行いました。
 これは人道的支援という側面のほかに、同化政策による高レベルでの労働力確保という目的があったのでしょう。その証拠として現地人の教育は小学校までで、特に優秀な子供だけは内地(日本本国)の中学校に留学させるものの、あとは入植者の手伝いや勤労奉仕につかせ、成人の仕事も日本人の補助的なものに限っていたようです。
 それでもそれまでの白人支配の時代に比べ、より人間扱いし自立自活の道筋をつけたことで、戦後70余年が過ぎた今でも親日感情はとても高いとのことです。
 日本による統治が安定した1920年ごろになると、現地人を上回る2万5000人以上の日本からの移民・入植者があり、コロールの中心街は日本の商店が軒を連ねる繁華街になっていったといいます。